町史など: 2009年12月アーカイブ

松崎町伏倉区にある多福寺に行ってきました。

 

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◆宗派:臨済宗建長寺派

 

◆創建:文正元年(1466)

 

◆本尊:釈迦如来立像

 

◆沿革

掛川誌稿で伏倉を次のように書いている。

「此ノ村谷間ニ人家アリ、上ヲ浅倉トイイ下ヲ伏倉トイウ、浅倉ハ奥浅ク伏倉ハ奥入リ深シ 伏倉ニ家多ク在ル故ニ一村ノ名トス」と。

その伏倉の奥、石原田の地に文正元年に多福寺が創立されたという。

時は京に応仁の大乱の起きる前年であった。

それから40年余りたった永正2年(1505)、芳潤(天文4末年正月18日示寂)が来て、臨済宗に改宗して鎌倉建長寺末となった。そのため芳潤が寺の開山となっている。

宝永2年(1705)三世脱堂の時火災に遭い、寺地を現在地に移して再建した。また、当時は山号を竹叢山と称していた。

江戸時代の末、嘉永3年(1850)に伏倉の大火で寺も焼失、その後は仮本堂(間口3間半、奥行き5間)を建て檀家の供養を行っていた。

火災以後50年余年たった明治37年(1904)7月、現在の本堂(本堂兼庫裏)がようやく再建された。時の住職は円通寺18世珉岳の兼住であった。

その昔、伏倉の洞に地蔵堂があった。明治初年の廃堂政策によって一応廃されたが、明治7年(1874)火災により焼失、本尊地蔵菩薩(石仏)は寺の須弥檀に移された。いま、旧趾は竹林となり、入口に立つ三界万霊等(塔)のみにその所在が示されている。

本堂の正面に懸かる竹叢山の扁額は、当地出身の書家藤池竹洞氏によるもので、現在の山号は瑞祥山である。

竹叢山がいつ瑞祥山に変わったか定かでないが、明治5年(1768)大本山建長寺への報告と文書には竹叢山とあり、文化年間(1804~1817)編さんの掛川誌稿には、隋祥山(隋は瑞の誤りか)と記され、江戸時代末期と推定される。

◆年中行事:8月4日施餓鬼会

 

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