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松崎町伏倉区にある多福寺に行ってきました。

 

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◆宗派:臨済宗建長寺派

 

◆創建:文正元年(1466)

 

◆本尊:釈迦如来立像

 

◆沿革

掛川誌稿で伏倉を次のように書いている。

「此ノ村谷間ニ人家アリ、上ヲ浅倉トイイ下ヲ伏倉トイウ、浅倉ハ奥浅ク伏倉ハ奥入リ深シ 伏倉ニ家多ク在ル故ニ一村ノ名トス」と。

その伏倉の奥、石原田の地に文正元年に多福寺が創立されたという。

時は京に応仁の大乱の起きる前年であった。

それから40年余りたった永正2年(1505)、芳潤(天文4末年正月18日示寂)が来て、臨済宗に改宗して鎌倉建長寺末となった。そのため芳潤が寺の開山となっている。

宝永2年(1705)三世脱堂の時火災に遭い、寺地を現在地に移して再建した。また、当時は山号を竹叢山と称していた。

江戸時代の末、嘉永3年(1850)に伏倉の大火で寺も焼失、その後は仮本堂(間口3間半、奥行き5間)を建て檀家の供養を行っていた。

火災以後50年余年たった明治37年(1904)7月、現在の本堂(本堂兼庫裏)がようやく再建された。時の住職は円通寺18世珉岳の兼住であった。

その昔、伏倉の洞に地蔵堂があった。明治初年の廃堂政策によって一応廃されたが、明治7年(1874)火災により焼失、本尊地蔵菩薩(石仏)は寺の須弥檀に移された。いま、旧趾は竹林となり、入口に立つ三界万霊等(塔)のみにその所在が示されている。

本堂の正面に懸かる竹叢山の扁額は、当地出身の書家藤池竹洞氏によるもので、現在の山号は瑞祥山である。

竹叢山がいつ瑞祥山に変わったか定かでないが、明治5年(1768)大本山建長寺への報告と文書には竹叢山とあり、文化年間(1804~1817)編さんの掛川誌稿には、隋祥山(隋は瑞の誤りか)と記され、江戸時代末期と推定される。

◆年中行事:8月4日施餓鬼会

 

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【祭神】 仁徳天皇

 

【由緒】

船田の集落のほぼ中央、小高いところに鎮座している。創立年月は不詳である。

最も古い棟札は室町時代の文正2年(1467)10月の本殿造営についてのものであるが、その記録の内容については文字が薄くて判読不可能であり、創立などについての詳しいことはわからない。

寛政元年(1789)2月の棟札には、宝暦9年(1759)の洪水の記録があり、また明治20年(1887)5月の棟札には明治19年の暴風雨の模様が記録され、神殿が空に舞ったが御神体は動かなかったとか、神社再建にかける老若男女の意気込みなど興味深いものがある。

 

【例祭日】2月11日、11月3日

子安神社

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子安神社は子授け、安産、子育てなどの神として広く信仰されている。

祭神は木花耶姫(このはなさくやひめ)、鬼子母神(きしもじん)、地蔵、観音などといわれる。

・道部地区の中島のバイパス近くの子安神社は、掛川誌稿に「石の小祠一基千体堂の南 田の中にあり」とある

・雲見白山神社の子安神社は安産、子育ての神で、お七夜、百一日のお参りに白餅を供えた

・境内社としての子安神社は、伊那上神社と船寄神社にある。

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【左画像は道部の子安神社】

【宗派】臨済宗建長寺派

 

【創建】貞治元年(1362)

 

【本尊】聖観音菩薩立像

 

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~沿革~

その昔、妙智山・円通寺と称して、観音菩薩(弘法大師の作と伝えられている)を祀る、真言宗の小さな庵が宮内村にあったという。

貞治元年、鎌倉建長寺より東林友丘を請じ、船田帰一寺末として臨済宗に改宗、堂宇を那賀川沿い(伊那上神社前)に建立した。したがって東林友丘が開山となっている。

その後、安土桃山時代の終わりにかけた230年余りは、寺の衰微期間か、寺歴は全く不明である。慶長のころ、二世欽堂(慶長16年示寂)が出て衰微していた寺を再興している。

江戸時代三世遼天の代の慶安2年(1649)には、3代将軍家光より寺領12石の朱印状を受けた。

堂宇が那賀川沿いにあったため、度々洪水の被害に遭い、また、数度の火災にも遭ったため、宝永年間七世黙禅の代に現在地に移転、新たに堂宇を造り(記録に人足延べ6,000人)山号も文覚山と改めた。明和5年(1768)の本山への報告を見ると、

【豆洲賀茂郡宮内村】

   【文覚山 円通寺】

一、御朱印地  拾弐石余 但御朱印五通

一、御年貢地  高五石

一、本尊     観世音菩薩

一、開山東林和尚並前住之牌等

一、法衣並坐具念珠  壱連

一、檀家     四拾軒

一、過去帳   壱通

一、半鐘   壱口

一、仏前庫下通用之什具品々有之

支配堂

一、福寿庵

一、本尊 観音大師   壱尊

一、文覚上人像   壱躰

江戸時代末期の寺の様子がよくわかる。

福寿庵とは相生堂のことで、元文3年(1738)に改称している。一説に、治承3年(1179)当山の奥の院であった観音堂で、韮山に流罪中の源頼朝と文覚上人とが相会して、源氏再興の密議をなしたという。後この堂は相生堂(遭遇堂)と呼ばれていたが、明治の初めに廃堂となり、現在は山中に堂址と墓地が残るのみ。堂内にあった頼朝と像は当山の本堂に移されている。

境内にある弁天堂は、天保3年(1832)13世盤山に帰依した馬場宇七が、財産を喜捨し、また多くの人から浄財を身めて創立したもので、本尊弁財天(木造)と大般若経600巻を蔵している。また、もと境内にあった天神社、稲荷神社、三島神社をも合祀してある。

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【祭神】 大山祗命

 

【由緒】

式内社で、延喜式神名帳には「伊志夫神社」、また伊豆国神階帳によれば「従四位上いしひの明神」と記されている。

創立年月は詳かでないが、往昔、石部の神田の地から遷祀したという。神田に雄雌の大岩があり、雄石の頂部に神火を燃した跡というくぼみがある。この岩に神が宿るとして火を燃やして、海上交通の目印とし、交通安全を祈っていたが、時移りやがて神社を建立したのがはじまりではないだろうか。

室町時代の天文十二年(1543)の棟札には「石火大明神宮」とか「伊豆国仁科庄雲見郷石火村」の記載があり、当時村名は「石火」、社名は「石火大明神」と称していた。伝承によると、江戸時代になって村に度々火災があり、村人が「火」の字を嫌い「石部」と改めたという。現存する前記天文十二年および元和七年の棟札は後年になって訂正した跡が明らかで、もと「石火大明神」、「石火村」とあったのを、それぞれ「石部大明神」、「石部村」と一字ずつ書き直したものと思われる。なお、棟札三(寛永十五年(1638))以降は、当初から石部と書かれている。

寛永十五年以降の棟札になると、三嶋大明神の名称が用いられ、江戸時代はずっとこの名称であった。漁業の神として広く信仰を集め、この宮の金の御幣を振ると魚が招き寄せられたと伝えられている。なお増訂豆洲志稿には「此神ノ古キ午王(牛王宝印の略で厄除の護符)松崎村ニ存ス、石火宮宝印ト刻ス」との記録がある。

 

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例祭日 1月17日

また5月、9月の17日にも御石講と呼ばれる祭典がある。

 

例祭日の行事

1月17日、太鼓の「ネリ」が集落内を巡回し、18日、悪魔拂いの神事を行う。

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岩地の一里塚の、今はなき大きなムクノキの下に、延享2年(1745)の銘文のある石地蔵が祀られている。

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言い伝えによれば、この地蔵は岩地の屋号「田中」斎藤家の2代目に長らく眼病を患っていた人がいた。この人は非常に信仰心深い人で、「禅岩」という法名を授けられていた。

禅岩は眼病平癒祈願のため、四国八十八ヵ所の巡拝をして、石地蔵を求め背負子で岩地まで背負ってきた。

大勢の人々に拝んでもらう様にと一里塚に地蔵を安置したといわれている。

 

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昔、岩地のある人が、伊勢参りに行った帰り道、ある所でにわか雨に降られたので、地蔵堂の軒先で雨宿りをしていると、中から地蔵さんが話をしている声が聞こえてきました。「生まれてきた子供は七つの祝いをしてやらないと、無事に育ちもしないが長生きもできない。この年の祝い事は欠かさずにしたいものだ」と言っていました。

その後、その人は旅を続けて家に帰り着くと、ちょうど妻がお産をして男の子を生んだばかりでした。

やがて、子供は3歳、5歳と過ぎ7歳になったので、その家では子どものために餅をついたり酒を用意したりして大勢の親類や近所の人を招いてお祝いの宴を開きました。

その頃は海辺で釣りをしながら宴会をしたこともあるようです。

すると、その海辺に見知らぬ男の子が現れたので、「お前はどこの子だ」、「石部から来たのか」、「雲見の子か」と尋ねたが、ただ首を横に振るだけだったが、その子の言うには、「おれは、今日ここにいる七歳の男の子をもらいに来たのだが、急ぎの用事ができたので、もらっていけなくなった」と言って、どんどん遠ざかって行きました。

そこにいた人たちは皆驚いて、その男の子の行方を見守っていると、その男の子はカッパの姿に変わっていました。人たちが恐ろしさに震えている間に、カッパの姿は消えて、辺りはしんと静まり返っていました。

 

その後、また、子どもを取りに来るかもしれないカッパから子どもを守るために、地蔵を建て村人は拝んだと言うことです。

岩地の一里塚に、その地蔵さんが立っています。

地蔵さんの大きさは高さ約94センチ、横約61センチ、顔は卵形で目は細く、鼻は丸く、口は横に一文字に結び、優しそうで厳しい顔付きで、手には杖を持ち、裸足で石の囲いの中に入っています。

【三浦風土誌】

力 石

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昔若者たちが力試しや力競べをするために使われていた石で、現在神社の境内の一隅に置かれてあるものが多い。

形は細長いものや卵形の自然石で、中には切り付けといって奉納とか姓名、重量などを刻字したものもある。

元来は石に対する信仰の一つで、石占(いしうら・石による占いで、石の個数や大小、軽重や、蹴った石の状況などから吉凶、豊凶を占う)といって、神意を問うためのものが形を変えて、若者が持ち上げて力競べや力試しに用いられた。もとは神の依代(よりしろ・神霊が招き寄せられて乗り移るもの)となっている石を持ち上げて豊凶を占うものであったという。

今では半ば土に埋まっているものもあって、力を競い合った往時を一層遠い過去のものにしている。

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■八幡神社(八木山)の力石↑

鳥居に向かって右側の、町指定天然記念物のケヤキの根元に2個置かれている。

大きい方の切り付けは・・・

奉納  癸卯天明3年3月 南新川 佐七

     六拾貫余  みち婦村 佐七

    と刻字されていて、町の代表的な力石と言えよう。

刻字の六十貫余は225㌔余、天明3年(1783)は浅間山大噴火の年である。

南新川は江戸の酒問屋街で、鰹船の乗組員が冬季出稼ぎに行ったところ。

みち婦村は道部で、道部の佐七が南新川に働きに行った記念か、この石で力競べをして優勝した記念であろうか。

細い方は切り付けはないが、四十貫余(150㌔余)と言われている。

 

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祭神 積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)

 

由緒

式内社で、創建は不詳とされているが、平安時代初期、弘仁2年(811)伊豫国(愛媛県)越智郡三島より遷祀したとも伝えられている。

社名については平安末期文治元年(1185)文書に、伊豆国那賀郡三島宮、慶長5年彦坂九兵衛の神領付には「松崎上宮神領分」とあり、正徳2年(1712)の棟札に伊那上宮とある。宝暦9年(1795)円通寺との山論(山林の境界の争い)の評定所裁決書には三嶋大名神とある。

 

神職金指(差)氏は豆洲志稿によると伊豫国河野氏の後裔で三島明神と共に当地に来たといわれる。

日本書紀の応神天皇の巻に、新羅王が造船の匠を日本に送ったことが記されており、古い伝えでは、当地にも帰化したこの猪名部が集落を営み、産土神として、伊那上、下社を祀ったという帰化人奉祀説があり、那賀川の上、下に区別され、伊那上は三島神社の系統へ移っていったと思われる。

平安時代、延喜7年(907)式内社に列し、伊那下神社とは相対的に存在した社であった。

 

鎌倉時代、「承安3年(1173)源頼朝公参詣三島明神」と金指家過去帳にあり、のち頼朝より、社田寄進を受け、社殿宏壮で末社八十有余、伊豆西海岸第一の宮であったという。

本殿内の神像六躰は鎌倉前期の作で、同中期の神鏡「松喰双鶴鏡」は県文化財に指定されている。

安土桃山時代天正18年(1590)の兵火で焼失したが、社司金指義長が本社と40余の祠を再建し社の面目を保持した。

江戸時代に入り慶長6年(1601)再び火災でことごとく灰燼に帰した。金指家文書に「松崎から出火、風強く宮内村不残類焼」とある。慶長13年(1608)大久保長安寄進の「釣燈篭」は県指定文化財で銘文に「奉寄進豆洲賀茂郡那賀神社」とあり、これは当時伊那上が社勢盛んで、那賀郷中の中心社の位置にあったので那賀神社と銘打ったものであろうか。社領20石(内上の社15石、下の社5石)あったという。

 

明治6年8月、雲見から小杉原に至る11ヶ村の郷社で、明治22年4月の町村合併により松崎、岩科2ヶ村の郷社、のち松崎の郷社となった。

境内に忠魂碑、西南戦争戦死者碑が健立されている。また、町指定天然記念物の亀甲松(樹齢350年余)があったが惜しくも平成5年3月に枯死した。

 

例祭日 11月3日

例祭の行事

①奉納相撲、宮内区、伏倉区より満20歳の青年代表各1名が、2番勝負を行い、1番は真剣勝負で、2番目は1番目の勝者が相手に勝ちをゆずる。

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②弓引き、昔は矢場を設けて弓引き行事もあったという。

③神楽の奉納、伏倉区の氏子が戦前まで奉納していた。戦後一時復活したが今は行われていない。

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